「あ、あの……この契約書に書かれている子供が出来た場合と言うのは……?」
朱莉は声を震わせた。
「何だ、そんな事いちいち君に説明しなければならないのか? 決まっているだろう? 俺と彼女との間に子供が出来た場合だ。当然、俺と彼女との結婚は周囲から認めて貰えていない。そんな状態で子供が出来たらまずいだろう? その為にも偽装妻が必要なんだよ」
面倒臭そうに答える翔。
偽装妻……この言葉はさらに朱莉を傷つけた。初恋で忘れられずにいた男性からこのような言葉を投げつけられるなんて……。しかも相手は履歴書でどこの高校に通っていたか、名前すら知っているというのに。(鳴海先輩……私の事まるきり覚えていなかったんだ……)
悲しくて鼻の奥がツンとなって思わず涙が出そうになるのを数字を数えて必死に耐える。
(大丈夫……大丈夫……。私はもっと辛い経験をしてきたのだから)
「あの……社長と恋人との間に子供が出来た場合、出産するまでは外部との連絡を絶つ事とあるのは……」「ああ、そんなのは決まっているだろう。君が妊娠した事にして貰う為さ」
翔は面倒臭いと言わんばかりに髪をかき上げる。
(そ、そんな……!)
朱莉はその言葉に絶望した。
「社……社長! いくら何でもそれは無理過ぎるのではありませんか!?」
思わず朱莉は大きな声をあげてしまった。
「別に無理な事は無いだろう? 君がその間親しい人達と会いさえしなければいいんだ。直接会わなければ連絡を取り合ったって構わない。勿論その際は妊娠していないことがばれないようしてくれ。それは君の為でもあるんだ」
翔の言葉を朱莉は信じられない思いで聞いていた。
(本当に……本当に私の為なんですか……?)
今、目の前にいるこの人は自分を1人の人間として見てくれていない。
本当の彼は……こんなにも冷たい人だったのだろうか?一方の翔はまるで自分を責めるような目つきの朱莉をうんざりする思いで見ていた。
(何なんだよ……この女は。だから破格の金額を提示してやってるのに……。それとももっと金が欲しいのか? 全く強欲な女だ)
翔が軽蔑しきった目で自分を見ているのが良く分かった。
この人と偽装結婚をすれば、お金に困る事は無いだろう。母にだって最新の治療を受けさせてあげる事が出来るのだ。 この生活も長くても6年と言っていた。6年我慢すれば、その間に母だって具合が良くなって退院できるかもしれない。お金もたまって2人で暮せるマンションだって買えるかもしれないのだ。 それに朱莉は子供が好きだった。一時は保育士になりたいとも思っていた。ただ保育士になる為の学校へ通うお金が無かったから夢を諦めてしまった。やがて生まれてくるかもしれない鳴海と恋人の子供を自分で育てる。それも……ありなのかもしれない。
「……分かりました。このお話……謹んでお受け致します」
朱莉は頭を下げた。
「ああ、良かった。やっと納得してくれたんだね? ありがとう、助かるよ」
笑顔で言いながらも内心、鳴海は朱莉に毒を吐いていた。
(全く……どうせ引き受けるならもっと早くに返事をすればいいものを……!)
「じゃあ、早速契約書にサインを書いて貰えるかな?」
(相手の気が変わらない内にさっさとサインを書かせないと……)
翔は気が気では無かったが、その心配は稀有だった。朱莉は素直に契約書にサインをしたのである。
「あの、それでいつから偽装結婚を始めるのでしょうか?」
朱莉の質問に鳴海は少し考えて口を開いた。
「よし、まずは互いのプロフィールを交換し合おう。どんな内容のプロフィールが最低限必要なのか調べ上げて、ピックアップをして、アンケート形式で君のアドレスに送るようにしよう。それじゃ。連絡先を今すぐ交換させてくれ」
「はい」
朱莉がスマホを取り出そうとした時――
「あ、ちょっと待ってくれ。君が個人で使用しているスマホを使うのはまずいな……。いわゆる今回の偽装結婚はビジネスのようなものだ。俺とだけ専用に使用するスマホを用意させよう。明日の朝、この会社に取りに来てくれ。受付で渡せるようにしておくから」
受付で渡す……。仮にも偽造とは言え、結婚する相手なのだ。それでも翔は必要最低限の事でしか朱莉とは会わないと言う事が今の態度で良く分かった。
「はい、分かりました」
「それじゃまた近いうちに連絡を入れるから、君はその間にすぐ引っ越しが出来るように荷物をまとめておくんだよ。分かったね?」
「……」
しかし朱莉は返事をしない。
「どうしたんだ? 返事は?」
「あ、あの実はアパートの契約をついこの間2年契約で更新したばかりなんです。今契約を解除すれば違約金が発生してしまいます。申し訳ございませんが、先にいくらか前払いして頂けないでしょうか?」
朱莉は情けないのと恥ずかしいので顔を真っ赤にしながら、俯いた。
そんな様子を鳴海はじっと見ていた。
(全く……借金まで作って遊び歩いているのに、違約金を払う余裕すら無いのか?……この女、意外と金食い虫なのだろうか?)
だが、翔は作り笑いを浮かべると言った。
「ああ、そうだったね。すまなかった。支度金が必要だと言う訳なんだね? では早速銀行口座を作ろう、君のネットバンキングを作るから、毎月の手当てをそこに振り込むことにするよ」
「ありがとうございます。助かります」
「よしそれじゃ今日の打ち合わせはここまでだ。明日の朝10時にこの会社に来てくれ。ロビーの受付の人間に言伝を頼むから、そこで必要な物を色々受け渡す事にするよ」
言い終わると翔は立ち上がった。
その様子が朱莉には、まるでもう全ての用事は済んだのだから、早く帰ってくれと言われているように感じられた。「はい、それではまた明日、よろしくお願い言いたします」
最後に深々と頭を下げると朱莉は応接室を出て行った――
****
「ふう……」翔は溜息をつくと内線電話を手に取った。
プルルル……
電話の呼び出し音と共に、受話器を取る音が聞こえる。
『はい、九条です』
「ああ……今やっと終わったよ、琢磨」
疲れ切った声を出す翔。
『何だよ、大袈裟な奴だな。時間にしてみれば僅か1時間程度じないか』
何処か笑い声を含ませた声に聞こえた。
「お前なあ……酷いじゃないか。俺と一緒に彼女の話を聞く約束だっただろう?」
『煩いなあ。こちらだって色々仕事が溜まっていて大変なんだよ。大体彼女との面接は全てプライベートな事じゃ無いか。そんなものにこの俺を巻き込むなよ。それで相手はちゃんと納得したんだろうな?』
「ああ、勿論。あの様子だと大丈夫だろう」
『それで今度はいつ会うんだ? 明日か? 明後日か?』
「はあ? お前一体何を言ってるんだ? 何故俺が彼女と日を空けずして会わないとならないんだよ?」
琢磨の訳の分からない話に翔はイラついた。
『何故って……そりゃ仮にも偽装とは言え、結婚するわけだから昼間に会うのが難しければ、夜一緒に食事に行くとか……』
「お前なあ、そんな暇があるなら、俺は明日香と過ごすよ。それにあの明日香が俺が他の女と出掛けるのを許すと思っているのか?」
『えええっ! お、お前……それ本気で言ってるのか? 全く……やはりお前は鬼の様な男だな』
「うるさい。電話切るぞ」
翔はやけ気味に言った。
『オウオウ、いいぜ、ほら。早く電話切れよ』
しかし、琢磨は翔はこの電話を切る事が出来ないと言う事を知っていた。
「クッ……わ、分かったよ……悪い、琢磨。今から言うものを明日までに全て用意して貰えるか?」
翔は偽造結婚の為に必要な通帳や新しいスマホの用意を琢磨に依頼した――
京極が部屋を出て行った後、飯塚は自分の持ってきた荷物を収納棚へしまい始め……あっという間に終わってしまった。「こんなに早く片づけが終わってしまうなんて。いかに自分が何も持っていないかがすぐに分かるわね」飯塚は自嘲気味に笑った。持ってきた私物はほんのわずかだった。各シーズンごとの服と下着数点、それに化粧水、乳液、日焼け止めクリームにファンデーションと口紅のみだったのだ。我ながら持ち物のあまりの少なさに呆れてしまった。刑務所の中で生活をしていた時にはそれほど持ち物に執着することは無かった。生活する為の最低限な物さえ手元にあればいいと思っていた。しかし、出所してきた今はそうは言ってられない。これから生活の為に就職活動だってしなければならないのだ。スーツだって必要になるし、靴にカバン。そして身だしなみを整えるための化粧品だって必要だ。しかし、それらの物を飯塚は一切持っていなかった。「今、手持ちのお金は25万円か……」刑に服していた時に作業報奨金として貰っていたお金は全て使わず貯金していた。出所時、最終的には今手元に残ったのは25万円だけであった。これが今の飯塚の全財産である。なので本当のところ、住む場所を提供してくれた京極には感謝していた。それなのに飯塚は静香に対する負い目と、高いプライドが邪魔をして素直になれずにいたのだ。でも、住むところは提供して貰っても食費は自分で何とかしないといけないだろう。部屋の掛け時計を見ると、早いもので時刻は11時半。そろそろ昼になろうとしている。そこで飯塚は買い物にでも行こうかと、出所時に着ていた薄い上着を羽織り、ドアノブに手を掛けた。――ガチャリ 飯塚は部屋を出ると、廊下を渡ってリビングへと足を向けた。****「え……? そこで何をしているんですか?」飯塚はリビングへ入るなり、自分は居候の身分であるにも関わらず部屋を与えられたのに、当の家主はソファに座り、PCを使用している。その京極を見て眉をひそめた。「ああ……仕事をしていたんですよ」京極はPCのキーボードを叩く手を休め、飯塚を見ると笑顔で答えた。「仕事って……確かもう1部屋は京極さんのお部屋でしたよね? そこで仕事をしないのですか?」「いえ、もともと自室は寝る為の場所で本来仕事をする場所はリビングと決めていたんですよ。あ……それともお邪魔でしたか?
「どうして私が貴方と一緒に暮らさないといけないんですか? いい加減にして下さい!」飯塚は叫ぶと、ハアハア肩で息をしながら京極を睨み付けた。しかし、京極は何を考えているのか、黙って飯塚を見つめていたが……やがて口を開いた。「飯塚さん、僕は貴女の身元引受人です。一緒に暮らすのは必然だと思いませんか?」「いえ! 少しも思いませんよっ!」「こんな言い方をすると貴女を傷つけてしまうかもしれませんが、犯罪履歴のある人物は……ほぼ賃貸契約時に審査で落ちますよ?」「え……?」飯塚はその言葉に耳を疑った。「そ、そんな……嘘ですよね?」「いいえ。残念ながら事実です。9割がた審査で落とされます」「そ、そんな……」飯塚はがっくりと肩を落とした。「ひょっとして……何も知らなかったのですか?」「……」飯塚は返事をしない。余程ショックだったのか、顔色が青ざめていた。「僕の名義でもう一軒アパートを借りても良かったのですけどね……色々面倒なことになりかねない。なので僕のマンションに一緒に住むのが一番効率的なんですよ。幸いここはセキュリティもしっかりしているし、マンションの住人同士も全く交流が無い。干渉される必要が無いので都合が良いと思いませんか?」「……分かりましたよ……。それでは……よろしくお願いします」京極と一緒に暮らす……それは飯塚にとって、とても屈辱的なことであり、耐えがたいことではあったが、家族からも親族や親友。何もかもから見捨てられた飯塚にはもはや京極に頼るしか術が無かった。「そうですか。納得して頂けたようで良かったです。では飯塚さんのお部屋を案内しますよ。僕について来て下さい」一方の京極は機嫌良く話しかけてくる。「……はい」渋々返事をすると飯塚は京極の後について行くことにした。「この部屋ですよ」京極がドアを開けて案内した部屋を見て飯塚は目を見張った。広い部屋に大きな窓からは太陽が降り注いでいる。窓にはレースのカーテンと品の良い淡いモスグリーンのカーテンがかけられ、部屋には大きなベッドが置かれている。しかも布団まで揃っていた。「え……これは……?」(まさか……私の為に部屋を用意したの?)戸惑っていると背後から京極が声をかけてきた。「部屋にはクローゼットが備え付けてあるので用意はしませんでした。多分これだけあれば収納は可能だと思うのです
「え……ここに今日から住むんですか?」京極と共にタクシーを降りた飯塚は目の前の高級マンションを見上げて、驚いたように目を見開いた。「ええ、そうです。さあ、行きましょう」京極は戸惑う飯塚をよそに、建物の中へ向かう京極。「このマンションはオートロックなので僕と一緒に入らないと締め出されますよ」「え? そ、それはちょっと困ります!」飯塚は慌てて京極の後を追った。エントランスを抜けてエレベーターホールの前に着くと、京極は上行きのボタンを押した。「このマンションは12階建てになっています。ちなみに僕たちが住む部屋は12階にありますから」「え……? 僕達…?…」飯塚がその言葉の意味を考える前に、エレベーターが到着して目の前でドアが開かれた。「さぁ、乗りましょう」「は、はい……」京極に促され、飯塚はエレベータに乗り込むとすぐに京極もその後に続き、ボタンを押した。京極に質問するタイミングを飯塚は失ってしまったが……。(まあいいわ。多分同じ12階に私と京極さんの部屋があるってことでしょう)京極は無言でエレベータに乗り、階層ランプが上の階へ移り変わっていくのを難しい顔をしながら黙って見つめている。(何だか話しかける雰囲気じゃなさそうね……)飯塚はそんな京極を横目で見ながら思った。普段の京極は気さくな人柄に見えるが、ふとした瞬間に近寄りがたい雰囲気を発する時がある。(本当に不思議な人よね。何より自分の妹を刺した人間の身元引受人になるのだから気が知れないわ。この人には気を許さないように注意しなくちゃ)チーンやがてエレベーター無いに到着を知らせる音が鳴り響き、スーッとドアが開いた。「さあ、降りましょう」京極は振り返ることもなく、さっさとエレベーターを降りる。「あ……もうっ!」(全く……さっさと1人で行動してしまうんだから。もう少しこっちを気遣ってくれてもいいんじゃないかしら?)不満を口に出せない飯塚はわざと思い切り不機嫌そうな顔つきでエレベーターを降りると、既に京極は部屋の前でカードキーをかざしてドアを開けている処だった。「飯塚さん、早くこちらへ来てください」京極に呼ばれて飯塚は近づいた。「ここが……私の部屋になるんですか?」「ええ、そうです。この部屋が僕と飯塚さんの部屋になります」京極はガチャリとドアを開けた。目の前にはフローリ
「え……? 今、何て言ったんですか?」アクリル板越しにいる京極に飯塚は目を見開いて尋ねた。「ええ、飯塚さん。僕が貴女の身元引受人になりました。住まいも提供しますから、安心して出所出来ますよ。当日は僕が迎えに来ますから」京極は笑みを浮かべる。 「ちょ、ちょっと……! 何勝手に話を決めているんですか!」「駄目でしたか? 以前伺った話では身元引受人も、住む処も何も決まっていないと言ってましたよね?」「ええ、言いましたけど……。でも本気で言ってるのですか? 私は貴方の妹の姫宮さんを刺して大怪我を負わせた犯罪者ですよ? 何所の世界に身内を襲った人間の身元保証人になる人がいるんですか!?」「落ち着いてください。あまり興奮して刑期が伸びたりしたらどうするんですか?」京極の言葉に飯塚の顔色が変わった。「え……? ま、まさか……冗談ですよね?」「ええ、勿論冗談ですよ? そのくらいで刑期が伸びる訳ないじゃありませんか」「! あ、貴方って言う人は……!」思わず飯塚はカッとなり……溜息をついた。「分りました……もういいですよ。好きにして下さい。どうせ私には選択権は無いんですよね?」そう、飯塚にはもはや京極意外頼れる人物は誰もいなかった。飯塚は逮捕された時点で家族からも親戚からも縁を切られてしまったのだ。「ええ、そうですね。貴女には選択権はありません。でも別に僕は貴女にどうこうするつもりはありません。ただ貴女の力になりたいだけですから」京極は真剣な目で飯塚を見た。「わ、分かりましたよ。そこまで言うならお言葉に甘えさせていただきます」「ええ。何も心配せずに身体一つで出所してきて下さい。それではそろそろ今日は帰りますね。この後会議が入っているので」そして京極は椅子から立ち上がると、お辞儀をして立ち去っていく。「本当に……変な人……」飯塚はポツリと呟いた――**** そしてあっという間に時は流れ、年始明け……飯塚が出所する日が訪れた。今までお世話になった人々に挨拶を終えた飯塚は門へ向かって歩き始めた。この日は雲一つ無い、カラリと晴れた青空だった。飯塚は空を見上げ、思い切り深呼吸すると息を吐いた。そして門を見ると既にそこには京極の姿があった。飯塚はゆっくり歩き……やがて京極の前に立った。「京極さん、今日からどうぞよろしくお願いします」飯塚は頭
京極が日本に帰国してから早いもので一月が経過していた。そして今日も又京極は東京拘置所に収監されている飯塚の面会に訪れていた。 「また来たんですか? 物好きな方ですね」相変わらず不機嫌そうな顔をした飯塚が視線も合わせずに言う。「言ったじゃないですか。週に一度は必ず来ますって」アクリル板越しに京極は笑みを浮かべる。「大体一般人は平日しか面会には来れないんですよ? 京極さんはお仕事されていないんですか?」「いいえ、してますよ。IT関係なので在宅で仕事をしています。なのでいつでも面会に来ようと思えば来れるわけです」「そうですか」たいして興味がなさそうに飯塚は返事をする。「ところで聞きましたよ。飯塚さん。来月、仮出所できるそうですね。おめでとうございます」もうじき刑期が終わるのだ。さぞかし飯塚は喜んでいるだろうと京極は思っていたのだが、飯塚の返事は予想外の物だった。「何がめでたいんですか? まだ誰も身元引受人が決まってもいないのに。行く当てだってありません。だから正直な話、私はここを出たくは無いんですよ」「え? そうだったのですか?」京極はその話に驚いた。てっきり飯塚には既に身元引受人が決まっていると思っていたのだ。「まぁ……今探し回ってくれているみたいですけどね」その口ぶりはまるで全てを諦めたような、どうでもよい口ぶりに思えた。「……」京極はそんな様子の飯塚を少しの間、無言で見つめていたが……やがて立ち上がった。「すみません。飯塚さん。用事を思い出したので今日はもう帰りますね。ああ……そうだ、飯塚さんに差し入れを持ってきているんです。占いの本を持ってきたので良ければ読んでください。後他に雑誌のクロスワードも持ってきましたよ」「はぁ? 占いの本……? 何故そんな本を持ってきたのですか?」飯塚の言葉に京極は首を傾げた。「駄目でしたか? 女性は皆占いに興味があると思っていたのですが……。占いと言っても手相の本ですよ。勉強になると思うので。それではまた来週伺いますね」京極はそれだけ言うと、飯塚の返事も聞かずにさっさと帰ってしまった。それを見た飯塚は不機嫌そうにつぶやいた。「何よ、あれ……随分自分勝手ね……」**** その日の夜――京極は身元引受人の条件について調べていた。「……そうか。これなら何とかなりそうだな…」時計を見
10月某日 14時―― 京極正人の姿が羽田空港に現れた。「久しぶりの日本だな……」サングラスを掛けた京極はポツリと呟いた。 4年前のあの日。飯塚咲良による姫宮静香の傷害事件の後、京極は会社を二階堂に託して1人海外へ渡航した。約4年の間に京極は世界各地を放浪し、本日羽田空港へと降り立った。何故、今回日本に帰国することになったのか……それは京極が思いを寄せていた女性、朱莉が鳴海グループ総合商社の次期社長に任命された各務修也と結婚することを知ったからであった――サングラス姿にラフなジャケットを羽織った京極は以前とはまるで雰囲気が変わっていた。4年もの間、海外で放浪生活をしていただけのことがあり、ある種独特な箔が付いていた。京極の荷物は小さなトランクケース1つのみ。残りの荷物は全て新居に送っていた。そして京極の新しい新居は東京都の葛飾区にある、2LDKのマンションであった。「さて、行くか……」京極は荷物を持つと、タクシー乗り場へと向かった。「お客様、どちらまで行かれますか?」タクシーに乗ると中年男性の運転手が声をかけてきた。「東京拘置所までお願いします」その言葉を聞いたタクシー運転手は肩をピクリとさせ……ゆっくり振り向くと尋ねた。「あの……もう一度お尋ねしますが……どちらまででしょうか?」「ええ、東京拘置所です」京極は笑みを浮かべて再度答えた――**** 京極は4年前からずっと月に1度、東京拘置所にいる飯塚に手紙を書いて送っていた。それは全て謝罪の手紙であった。京極は責任を感じていたのだ。自分が飯塚を煽ったことで、静香に姫宮に対する憎悪を募らせ……ついには刺傷事件を起こすまでに至った。その経緯は全て自分にあると思っていた。なので世界中何処にいても一度たりとも飯塚を忘れたことは無かった。常に罪悪感にさいなまされていたのだった。そして今回、朱莉が結婚する話を姫宮からの連絡で知り、日本に帰国するに至ったのだった。 姫宮からの連絡を貰った時、京極はインドネシアにいた。そこで小さなIT会社を設立し、15人の現地の人間を雇って経営を行っていたのだ。そして今後は少しずつ日本でも従業員を雇っていく予定なのである。 タクシーの中でウトウトしていた京極は不意にタクシー運転手に声をかけられた。「あの……お客様。着きましたが……」「あ、ああ